給湯室で目が合う。
それだけの出来事に、一日分の感情が乗る。会議で自分の意見に頷いてくれた回数を数えている。帰りのエレベーターが一緒になる確率を、なんとなく把握している。結婚相談所に7年いて、この種類の話を数えきれないほど聞きました。
その気持ちを作っているのは、相手じゃなくて条件のほう
週五日会い、生活の汚い部分は一切見えない
条件を並べると笑ってしまいます。
週に五日顔を合わせる。相手は身なりを整えてくる。共通の目的があって、同じ話題で盛り上がれる。困っているときは自然に助け合う。
そして決定的に見えないものがある。歯を磨いていない朝の顔。熱を出して寝込んだときの機嫌。金の使い方。親との電話の口調。トイレのドアの閉め方。
恋が発生しないほうがおかしいでしょ、こんなの。
家に帰れば、話す内容は保育園の連絡帳とゴミの日と請求書。職場では、意味のある話だけをしていられる。同じ人間が同じ時間を過ごしているのに、片方だけ美しい部分を切り取って提示している。
勝負になっていない。配偶者が負けているんじゃなくて、土俵が別なんですよ。
相手にとって、あなたが初めてとは限らない
職場という環境で誰かを特別に感じる人は、その環境に置かれれば何度でも同じ状態になります。
面談で聞いた話の中に、忘れられないものがある。40代の男性会員が、過去に職場で気持ちを通じ合わせた相手の話をしたとき、時期を確認したら二人いました。しかも部署異動の直後がそれぞれ半年以内。
本人は運命だと思っている。私が見ていたのは、環境が変わって不安になったタイミングで、近くにいた人に強く反応するという癖。
あなたが唯一だと感じているものが、相手の側では三度目かもしれない。
何もしていないのに、周りはとっくに知っている
気づかれる引き金は、触れることじゃなくて見ている時間
バレる原因を、行為だと思っている人が多すぎる。
違います。目です。
人が誰かを見ている時間は、本人が思っているより長い。会議中、発言していない人をずっと見ている。それだけで周囲は察知します。声のトーンも変わる。その人に話しかけるときだけ、ほんの少し高い。自分では絶対に気づけない部分。
相談所の面談で、どこから広まったんですかと聞いたことがあります。返ってきた答えが、エレベーターで二人が黙っていたので、でした。
普通の同僚なら、密室で無言にはならないんですよ。天気の話でもする。黙るのは、話すと何かが漏れると分かっているから。
ぞわっとしました。何もしていない状態のほうが、よほど分かりやすい。
指摘されないのは、味方だからじゃない
誰にも何も言われていない、を安全だと解釈するのは危ない。
職場の人間は、確信を持ってから動きます。言うタイミングを計っているだけ。しかも本人ではなく、上か、配偶者に近い誰かへ流れます。
守ってくれていた同僚が、部署が変わった瞬間に喋る。悪意ではなく、単に守る義理が消えるので。
噂は、あなたが行動したかどうかを区別しません。何もしていませんでした、という主張が通った例を、私は聞いたことがない。
先に壊れるのは家庭じゃなく、職場だった
二人が失うものの量が、まるで揃わない
言い切ります。ここが最も不公平で、最も語られない部分。
噂が立ったとき、周囲の視線が長く残るのは女性側です。日本の職場では、いまだにそう。仕事の評価にまで滲む。会議で発言しても、別の意味を勘ぐられる。
男性側は、しばらくすると元の位置に戻ります。何事もなかったように。
入会時に前職を辞めた理由を伺うと、職場の空気が変わったので、という言い方で説明される方が何人もいました。相手の男性は、たいてい同じ会社に残っている。
好意の量は同じでも、請求書の宛名が偏る。この一点だけで、私はこの恋を勧める気になりません。
異動したのは、彼女のほうだった
36歳の女性会員がいました。離婚を経て入会された方。
噂が立ったあと、上司から異動を打診されたのが彼女だけだったと聞いています。相手の男性は元の部署に残った。理由の説明は、業務の都合、以上。
新しい部署で、彼女は誰とも雑談をしなくなったそうです。
面談でぽつりと言われた言葉が、今も残っています。私は好きになっただけなんですけどね、と。
反論できませんでした。本当に、それだけなので。それだけのことに、対価の請求が来る。
相談所へ来るのは、結ばれなかった人のほう
離婚してまで一緒になった二人を、私はほとんど知らない
七年、入会者の背景を見てきた立場から書きます。
職場での関係をきっかけに家庭が終わり、そこから婚活市場へ来る人。定期的にいらっしゃいました。
その方たちの共通点。相手とは一緒になっていません。
片方の家庭だけが壊れて、もう片方は残った。あるいは両方壊れて、そこから急に相手の熱が下がった。
理由は、たぶん最初に書いたことと同じです。あの関係を成立させていたのは職場という条件で、そこから外に出た瞬間、条件が消える。生活が始まると、見えなかった部分が全部見えてくる。
特別だったのは相手じゃなく、切り取られた四角い枠のほうでした。
再婚のとき、経緯だけは必ず聞かれる
実務的な話も書いておきます。
再婚を目指す場合、離婚理由は必ず問われます。書類にも書く。お相手からも聞かれる。ぼかしても、ほぼ伝わります。
そこで不倫が背景にあると分かった場合、成立の数は明確に落ちました。実感ではなく、申し込みの数字として。
一度だけ、正直に全部書いた男性会員がいます。書かないほうがいいですよと私は言った。彼は、隠して始めるのはもう嫌なので、と譲らなかった。
半年、成立ゼロ。七か月目に一人だけ会ってくれる方が現れて、その方と成婚しました。
救いのある話に見えるでしょ。彼が失った時間と評判は、それでも戻っていません。
消さなくていい。ただし使わないこと
距離を取るより、相手の生活を細かく聞くほうが効く
実践のところを書きます。
よく言われる、距離を置く、話しかけない、視界に入れない。これ、あまり機能しません。会社にいる以上、完全に消すのは無理だし、避けている状態そのものが特別扱いなので。
効いたのは逆の方向でした。生活の話を、細かく聞く。
休日は何をしているのか。子どもの習い事の送迎は誰か。奥さんとどこへ旅行したか。家の話。具体的であるほどいい。
美しく切り取られた四角い枠に、生活の粒を流し込む作業です。じわじわと、相手が人間に戻ってくる。
私も一度、心臓が妙な動きをした
偉そうに書いてきたので、白状します。
産休から復帰して半年くらいの頃、同じ部署に転属してきた男性がいました。仕事が丁寧で、私が言ったことを覚えていて、次に会うときに答えを持ってくる人。
ある日、資料を渡されたとき、心臓がとんっと変な打ち方をしたんですよ。
うわ、と思った。自分に対して、心底うわ、と思った。子どもが生まれて一年経っていない。恥ずかしくて、その日は誰とも目を合わせられなかった。
夜、夫に言いました。会社の人にちょっとどきっとした、と。
夫の返事が、へえ、だけ。それだけ!
テレビを見ながら、で? という顔をされて、こちらの深刻さが完全に空振りした(笑)。
拍子抜けした瞬間に、あの感情は蒸発しました。声に出したら消えたんですよ、あっけなく。
言えない相手にだけ、感情は育ちます。誰にも言えない状態が燃料になっている。
消せない気持ちを抱えたまま働くのは、たぶん普通のことです。悪でもない。ただ、その気持ちを何かに使おうとした瞬間から、請求書の宛名があなたになる。
給湯室で目が合った。その事実は、そのまま置いておけばいいと思う。
拾わないでいられるかどうかだけ、ですよ。
