帰りの電車で、ひとり肩をプルプル震わせていた。
原因は、十年近く前の婚活パーティーの記憶。
司会だった私は、乾杯の合図のベルと間違えて、防犯ブザーのひもを引いてしまった。
会場に響きわたる、ビーッという非常音。
グラスを掲げたまま固まる、四十人の男女。
ホテルの人が血相を変えて飛んできて、私はマイクに向かって平謝り。
思い出すたび、今でもお腹の底から笑いがわいてくる。
ふと気づくと、隣の女性が、ひとつ向こうの席へ移っていた。
違うんです、ブザーの話なんです!
思い出し笑いする人に貼られるラベルはろくでもない。
スケベ、不気味、自分の世界に入っている人。
思い出し笑いする人はスケベ、の噂は見る側の想像力の問題
スケベ扱いされた日に、私が思い出していたもの
相談所に入ってすぐの頃、昼休みの休憩室で先輩にからかわれた。
何ニヤニヤしてるの、やらしいこと考えてたでしょ。
否定すればするほど疑われる、あの理不尽さといったら(泣)
一週間は、休憩室に入るたびに意味ありげな目で見られた…。
頭に浮かんでいたのは、会員さんが話してくれた猫の寝相。
スマホで写真の練習中、猫が画面の真ん中に割り込んできたらしい。
しかも腹を天井に向けたまま、堂々と寝始めたという。
後日その写真を見せたら、先輩までお腹を抱えて撃沈していた。
そもそも、思い出し笑いする人はスケベ、という言い回しはいつから広まったのか。
調べても、確かな出どころは見当たらない。
ひとつ言えるのは、スケベな想像をしているのが誰か、ということ。
笑っている当人じゃなく、それを見て勘ぐった側の頭の中なのだった。
猫のへそ天をいやらしい話に変換したのは、先輩の脳みそのほうでしょうが。
思い出し笑いの中身は、拍子抜けするほど平和
会員さんたちに、最近いちばん思い出し笑いしたネタを聞いて回ったことがある。
出てきたのは、色っぽさとは無縁の話ばかり。
会議中に上司をお母さんと呼んでしまった同期、子どもの言い間違い、犬の豪快な寝相。
なかでも多かったのが、自分の盛大な失敗談。
意外と、失敗談だけで全体の半分近くを占めていた。
人は、艶っぽい記憶より、恥ずかしい記憶で笑う生き物らしい。
思い出し笑いが多い人は、自分の失敗を笑い話に変えて保存できる人なのだと思う。
へこんだ出来事も、何年かたてば笑える箱にしまい直せる。
それって、生きていくうえでかなり強い。
思い出し笑いが不気味に見えるのは、輪の外に置かれるから
とはいえ、職場で思い出し笑いをすると、気持ち悪いと言われることもある。
あれは、笑う人が怖いわけではない気がする。
目の前で誰かが楽しそうなのに、何がおかしいのか自分だけ知らない。
その、笑いの輪からはじき出された寂しさが、不気味という言葉に化けているだけ。
だから、見られたと気づいたら、ひと言添えるだけで空気が変わる。
すみません、昨日の失敗を思い出しちゃって。
それだけで、相手は輪の内側に入れてもらえた気分になる。
不気味な人から、ちょっと面白い人へ、一瞬で格上げだ。
同僚に気味悪がられていた会員さんも、ネタを話すようにしたら、昼休みの人気者に。
思い出し笑いする人の心理は、楽しかった時間の再放送
人はひとりでいると、ほとんど笑わない
笑いを長年研究したアメリカの学者がいる。
彼の調べでは、人は誰かと一緒のとき、ひとりの時より三十倍も笑いやすい。
しかも笑いの直前の言葉で、本当に面白いものは一、二割にすぎなかったそうだ。
笑いは面白さより、人とつながっている合図に近いのだろう。
たしかに、ひとりでテレビを見ていても、頬がゆるむくらいで声までは出ない。
家族と一緒だと、同じ番組で平気で大笑いするのに。
だとすると、ひとりの思い出し笑いは、かなり特別な出来事になる。
めったに笑わないはずの時間に、誰かと笑ったあの瞬間が再放送される。
防犯ブザーのあの日も、固まった会場は一拍おいて大爆笑に包まれた。
電車の私は、あの時の四十人分の笑い声を、ひとりで再生していたわけだ。
楽しい記憶を何度も取り出す人ほど、機嫌がいい
思い出し笑いが多い人を、幸せな人、と書く記事は多い。
これは、あながち外れていない。
実は、研究の裏づけもある。
よかった記憶を一日二回、十分ずつ思い返してもらう海外の実験。
一週間続けた人たちは、今の悩みを考えていた人たちより、幸せを感じる時間が増えた。
思い出し笑いの多い人は、その実験を毎日勝手にやっているようなもの。
ポケットに飴玉を何個も入れて歩いていて、つらい時にひとつ口に放り込める人。
逆に、最近まるで思い出し笑いしていないなら、飴玉が切れかけているのかもしれない。
思い出し笑いが多い人は、記憶を写真より動画で持っている
さっきの実験には、続きがある。
記念の品を眺めるより、頭の中で場面を思い描いたほうが、幸福感の伸びが大きかった。
思い出し笑いの常連は、まさにこっちのタイプ。
あのブザー事件も、私の中では写真じゃなく動画で残っている。
ブザーをつかんだ指の感触、固まった男性のグラス、飛んでくるスタッフの足音まで。
面談でも、デートの話を動画で語れる会員さんほど、話が生き生きしていた。
彼がメニューを逆さに持っていた、店員さんの前で噛んだ。
そういう細部まで覚えている人は、たいてい、その時間を心から楽しんでいた人。
ちなみに思い出の品を使う方法でも、幸福感は上がってはいる。
ポケットが空っぽの時期は、スマホの写真フォルダをさかのぼるだけでも補充になる。
思い出し笑いする人の性格は、根に持たないタイプが多い
思い出し笑いが得意な人たちには、もうひとつ共通点があった。
デートでの相手の小さな失敗を、いつまでも引きずらないこと。
遅刻も、店選びの外れも、数日たてば笑い話として面談で披露するのが常だった。
逆に、思い出し笑いをほとんどしない人ほど、同じ出来事を減点として覚えていた。
同じ遅刻でも、一方はネタになり、もう一方は減点票になる。
記憶の出来事は同じなのに、保存するときのラベルが違うだけ。
どちらと暮らしたいか、答えは明らか。
婚活の面談で、思い出し笑いはいちばん正直な脈ありサインだった
ときめかないと嘆いた彼女が、報告の途中で吹き出した
デートのあとの面談で、33歳の経理職の女性はため息まじりに言った。
条件はいいんです、でも胸が高鳴らなくて。
その日の様子を順番に聞いていくと、彼女が突然口を押さえた。
彼がくしゃみをこらえた結果、ウシガエルみたいな声が出たらしい。
そこから先は、笑いの発作で報告にならなかった。
今、笑いましたよね、と言うと、彼女は目を丸くした。
心が動かないと言いながら、あの人のドジがよみがえって肩を揺らしている。
ときめきは、花火みたいに分かりやすいものばかりじゃない。
それを伝えたら、もう少し会ってみます、と照れくさそうに頷いた。
でも結局、その彼と結婚したのは、それから一年後のこと。
式のスピーチで、新郎のくしゃみの話が出たのは言うまでもない。
完璧なデートの報告ほど、笑いが一度も混ざらない
逆のパターンも、嫌というほど見てきた。
36歳の外資系勤めの女性が語ったのは、非の打ちどころのないデート。
予約の取れないフレンチ、完璧なエスコート、帰りのタクシーまで手配済み。
褒め言葉はいくらでも並ぶのに、笑いはひとつも出てこなかった。
はぁ…。聞いているこっちまで肩が凝る報告だった。
三回目の食事のあと、交際は静かに幕を下ろした。
男性だって同じ。
38歳の消防士の会員さんは、相手の話になるたび途中で噴き出していた。
焼き鳥屋で、彼女がつくねを串ごと床に落とした話を、三回は聞かされた。
そっちの二人は、半年でゴールインしている。
正直言って、面談に並ぶ賛辞は、履歴書の長所欄と変わらない。
本音が出るのは、話の途中でつい漏れる笑いのほう。
面談中の私の視線は、いつも会員さんの口元へ吸い寄せられた。
好きかどうか迷ったら、ひとりの帰り道の顔を確かめる
この見分け方は、今夜からでも使えます。
デートの帰り道、ひとりになった電車の窓に、自分の顔が映る瞬間がくる。
そこで口元がゆるんでいれば、もう答えは出ている。
条件や年収ばかり反芻するなら、それは恋じゃなく査定。
逆に、思い返すたびに眉間にしわが寄るなら、その違和感も大事な答え。
迷っている会員さんには、帰りに窓に映る自分の顔を見てきて、と宿題にしていた。
思い出し笑いは、頭で考える前に、体が先に出した返事。
恋人が思い出し笑いしていたら、問い詰めずに中身を聞く
何を思い出したかで、その人の宝物がわかる
彼氏が夜中にひとりで思い出し笑いをしていて、浮気を疑ってしまう。
そんな相談を持ちかけてきた人もいた。
私のすすめは、責める前に軽く聞いてみること。
何思い出してたの、と笑いながら。
彼女が聞いてみた結果、彼の答えは予想のななめ上だった。
先週、君が寝言で、焼きそばは飲み物!と叫んでたのを思い出して。
(それは笑う)
まさか自分の寝言がネタにされていたとは、彼女も思わなかったらしい。
以来、二人の間では、寝言メモをつけるのが小さな楽しみになったそう。
思い出し笑いのネタには、その人が大事にしている時間がそのまま出る。
気にするべきは浮気の影より、その笑いの中に自分の出番があるかどうか。
恋人のネタに自分が登場していたら、それは立派な愛情表現でございます。
教えてくれないときは、聞かないほうが幸せな話
ただ、何度聞いてもはぐらかされる場合もある。
そういうときは、深追いは禁物。
七年分の相談から言えば、隠された思い出し笑いの中身は、たいてい下らない。
聞いたら後悔するくらいに。
(ちなみに夫の場合、九割はダジャレだった)
詮索するより、二人で笑えるネタを増やすほうが、よほど実りがある。
相手の失敗をとがめる前に、ひと呼吸おいて笑ってみる。
その積み重ねで、数年後の二人の思い出し笑いの在庫が増えていく。
人前の思い出し笑いを止めたいときは、元司会者の奥の手で
スマホの画面を見るふりが、いちばん自然な言い訳
思い出し笑いで困るのは、会議中や電車の中、それに法事みたいな場面。
司会の仕事中にも、進行を忘れそうになるピンチは何度もあった。
そんなときの逃げ道は、手元のスマホ。
画面を見ながら笑っていれば、周りは勝手に納得してくれる。
何か面白い動画でも見たんだろう、と。
何もない空中を見て笑うより、よっぽど不審者感が薄れる(笑)
マスクをしている季節なら、口元の半分はそれで隠せる。
法事といえば、会食の席で、故人の失敗談にみんなで笑う場面も珍しくない。
読経の最中はさすがに困るけど、あれは不謹慎というより、立派な供養だと思う。
頭の中で冷蔵庫の在庫を数えると、笑いの波が引く
スマホが使えない場面なら、頭の中を別の作業で埋めつくす。
私の定番は、冷蔵庫の中身を上の段から順番に読み上げること。
卵、納豆、使いかけの豆腐、いつ買ったか思い出せない柚子こしょう…。
百から七ずつ引いていく計算も、頭を占領するにはもってこい。
地味な作業に脳を取られているうちに、笑いの波は遠のいていく。
舌を上あごに押し当てて、鼻から長く息を吐くのも効く。
それでもだめなら、ごめんなさい、思い出し笑いです、と先に謝ってしまう。
理由がわかれば、たいていの人は一緒に笑ってくれるよ。
