袖を掴む男は可愛い、で片付けると見落とすもの
改札前、じゃあねを遮った指先
この話をくれたのは、成婚退会した元会員さん。
デートの帰り、改札の手前で、じゃあねと手を振りかけたときのこと。
彼が袖の端を、ほんの少しだけ引っ張った。
手をつなぐほどの勢いはない。
振り返ると照れくさそうな顔で、もう少し話そう、と小声で言われたそう。
きゅん、ときたらしいのよ、彼女。
可愛い人だなって。
ところが彼に理由を聞くと、答えはずいぶん素っ気ない。
ただ名残惜しかっただけ。
よくよく聞けば、別れ際に急に距離が開くのが嫌だったんだって。
かといって、口に出すのは照れくさい。
ここに、男女の温度差がそのまま出ている。
女性は、可愛い仕草として受け取った。
男性のほうは、可愛くしているつもりなんて一ミリもない。
むしろ必死。
終わりかけた時間に、慌てて一時停止ボタンを押しただけなんだから。
喧嘩のあと、待っての代わりに伸びた手
軽い言い合いのあと、もう帰る、と歩き出した女性の話もある。
その一歩目で、彼が袖を掴んだ。
力は強くない。
待って、の一言を飲み込んで、代わりに指が出た感じだったとか。
彼女が足を止めるのを待ってから、彼はごめん、とだけ言った。
もともと、言葉で人を引き止めるのが下手なタイプ。
それでつい、袖に頼ってしまった。
彼女も最初は驚いた。
けれど彼の手の温かさに気が抜けて、その場で話し合えたそうです。
本人の言い分は、離れたくなかっただけ。
手じゃなく袖を選ぶのは、臆病でずるいから
布一枚ぶんの逃げ道
相談所時代、交際中の男性会員から何度も受けた相談がある。
いつ手をつないでいいですか。
真顔でそう聞いてくる、三十代や四十代の男性たち。
笑いごとじゃなく、彼らは心底怖がっていた。
差し出した手を引っ込められたら、そこで終わる気がするから。
袖って、服なんです。
肌じゃない。
掴んでも、相手の体そのものには触れていない。
もし嫌な顔をされても、服を引っ張っただけと言い逃れができる。
ずるい話でしょ。
人混みのイベント会場で、先を行く彼女の袖を後ろから掴んだ男性がいる。
はぐれると困る、と口調はいたって普通。
普段はほとんど体に触れてこない人だったのに。
理由を聞いたら、手をつなぐほど大げさにはしたくない、でも離れたくなかった、と。
公園を散歩中、少し離れて歩き出した彼女の袖を、無言で掴んだまま歩いた男性もいた。
こちらの言い分は、なんか寂しくなった。
手をつなぐのは大げさだけど、完全に離れるのも嫌だった、とも。
別々のカップルなのに、ほぼ同じ台詞。
大げさにしたくない。
これ、裏を返せば、断られたら立ち直れないってことです。
布一枚ぶんの逃げ道を残さないと手も出せないくらい、大事な相手。
臆病になるのは、それだけ本気だから。
指を絡めてきた男と、袖を引いた男の行く末
相談所にいた頃、同じ時期に担当していた二人の男性会員がいる。
一人は、二回目のデートで当たり前のように手を握るタイプ。
会話も上手で、お見合いの申し込みもひっきりなしだった。
もう一人は、四回目のデートでやっと、横断歩道で相手の袖を掴んだ人。
しかもそのあと、すみませんと三回も頭を下げた。
正直言って、私は手を握るほうが先に成婚すると踏んでいた。
見る目がなかった(泣)
手慣れた彼は、交際に進んでもまさかの三人連続お断り!
理由はどれも似ていて、慣れている感じが少し怖い、というもの。
袖の彼は、横断歩道のその相手と半年後に成婚退会していった。
女性は意外と見抜いているんです。
迷わず手を握れる男は、ほかの誰かの手も迷わず握ってきた男だと。
袖でもたつく男の指には、慣れていないぶんだけ、まっさらな緊張が乗っている。
暗い道でも人混みでも、袖の男が本当に守っているもの
危ないから、と言った彼の本音
夜道を歩いていて、暗がりに差しかかった瞬間に袖を掴まれた女性がいる。
どうしたの?と聞くと、危ないから、と少しだけ自分のほうへ寄せたそう。
普段は守ってあげる系の態度なんて、まったく見せない人なのに。
彼女は素直に、頼もしいと感じた。
でも、あとで彼が漏らした本音はこう。
なんか不安になった。
頼もしいと感じる女性と、心細くなっている男性。
一本の袖の両端で、まるで別の気持ちが揺れていたわけです。
彼が守っていたのは、彼女の安全だけじゃない。
自分の心細さのほうも。
隣にちゃんといるか、袖越しに確かめていたんでしょうね。
イベント会場の彼も同じ。
彼女はあの袖で安心した。
彼のほうは、彼女を見失わないことで頭がいっぱいだった。
守る側と守られる側、実際にはどっちがどっちなんだか。
こっちに行きたい、が言えない男たち
カフェを出て、先に歩き出した彼女の袖を、彼が軽く引いた。
振り返ると、どっちに行く?と聞かれただけ。
急いでいたわけでもない。
その瞬間、ただ近くにいたかった、というのが本人の話。
たった一往復のやりとりなのに、彼女の胸はやけに騒いだらしい。
ショッピングモールで、別の売り場へ向かう彼女の袖を掴んで引き戻した男性もいる。
何?と聞かれて、こっちに行きたい、と笑ってみせた。
一緒にいたかっただけ。
言葉にしないで、希望を伝えたかった。
彼の説明はそれだけ。
強引だなと思いかけた彼女も、柔らかい表情に毒気を抜かれたみたい。
本人は、なんか自然にやっちゃった、と首をかしげていた。
袖を引くのは、呼び鈴を鳴らすのに近い。
少しだけこっちを見て、の合図。
しかも鳴らした本人が、なぜ押したのかよくわかっていない。
それでいいと思う。
理由をきちんと言葉にできるなら、最初から袖なんて掴まないもの。
袖を掴まれたとき、女性が言ってはいけない一言
かわいいね、と笑った私のしくじり
偉そうに書いているけれど、私自身、盛大にやらかしている。
夫とまだ付き合う前、バス停でのこと。
バスに乗り込もうとした私の袖を、彼が無言で掴んだ。
私はとっさに笑って、かわいいね、と言ってしまった。
夫の顔から、色が消えた。
袖を離して、ごめん、とだけ。
私の胸のほうが、ずきんと痛んだ。
それから結婚するまで、彼が私の袖を掴むことは一度もなかった。
はぁ…今思い出しても穴があったら入りたい。
男にとって袖を掴むのは、素の自分がうっかり漏れた瞬間。
そこを可愛いと笑われるのは、寝癖を指さされて笑われるのに近い。
褒めたつもりの言葉が、刃物になる。
(いまだにあの日のことを、夫にちゃんと謝れていない)
振り返って、黙って待つ
じゃあ、どうすればよかったのか。
うまくいった女性たちの話を並べると、反応は驚くほど似ていた。
振り返って、足を止めて、彼が何か言うまで待つ。
改札の彼は、もう少し話そう、と言えた。
喧嘩の彼の口からは、ごめんが出た。
モールの彼も、こっちに行きたい、とちゃんと希望を口にしている。
袖を掴んだあとに出てくる言葉こそ、彼の本心なのよ。
女性が先に可愛いと口を挟むと、その言葉は永遠に出てこない。
男性が袖を掴む心理を一言で言うなら、行かないで
袖が掴まれるのは、決まって離れる直前
集めた話を見返して、気づいたことがある。
帰り際。歩き出す一歩目。先に行かれたとき。
別の売り場へ向かうとき。少し距離が開いた瞬間。
袖が掴まれるタイミングは、ほとんどが離れる直前。
男性が袖を掴む心理に名前をつけるなら、行かないで。
五歳児なら平気で口にできる言葉を、大人の男は喉の奥にしまい込む。
しまい込んだぶんだけ、指が勝手に動くんだよね。
